ステートメント
Photo by Koji Sakai
梅原 真 デザイナー

「デ」

ローカルがユタカであってこそ、その国はユタカかなのだ。と思う。

ローカルがユタカでなければ、その国はユタカではない。

ユタカさの基本は、そこに住む人々が、そこを楽しみながら生きるセンスだ。

足下を見ず、東京ばかり見ている人々、行政はユタカではない。

センスはまた、一次産業を存続させる力だ。

[一次産業×少しのデザイン=コミュニケーションデザイン]により

地域をユタカにし、その風景を残すことができると感じている。

デザインにそんなありがたい使命があってもいいではないか。

しかし、やりすぎはいけない。やりすぎは「おいしくない」。

ローカルで「デザイン価値の認識がない」のは、

むしろデザイナー側のモンダイである。と思う。

デザイン価値をみとめられない。

あるいはそのデザインが商品価値を落としている例がたくさんある。

ローカルのデザイナーは、こころざしが低い。カンチガイしている。ユタカではない。

ほぼ3拍子そろっている。

それがモンダイ。

ソフト料を払わない、ローカル住民、ローカル企業、ローカル行政を非難するより

時間はかかるが、根本を手当てしなくてはいけない。

くさい臭いは元から絶たなきゃダメ!

小学校の授業「図・工」の時間を「図・工・デ」にすることだ。

市役所の人間も、県庁の人間も、小学校入学時から、デザインの洗練を受けている。

というのは画期的であり、新しい日本が見える。

日本人の「美意識」を「デ」によって再生するのだ。

JAGDAのトップと文部省の話し合いで日本が変わる(笑)

「デ」このカタカナひと文字が、日本を変える。

ひと文字の力。

「デ」。



大迫修三 ギャラリープロデューサー
会議に参加して

「ローカルとデザイン」というテーマは、東京暮らしが長いとなかなか考えない話題でしたが、今回はいい機会を与えていただきました。この話題をつきつめると、本当に求めていく世の中は、どんなものなのだろうかというところまで行き着くような気がしました。会議でも少しお話しましたが、昨年から今年にかけて上海に60泊以上しましたが、都市の近代化やビルの高層化で、東洋一とか、世界一という価値観がまったく意味を持たない時代に突入したという思いを強くしました。地球環境の問題も含めて、デザインを含め、すべての問題が大きな転換期を迎えていると思います。まさにパラドックスの大転換が必要な時なのではないでしょうか? DNPや経済成長と指針から抜け出して、真の幸福や人間としての誇りなど、デザインに関わる人間として考えていかなければならないと感じています。デザインの本来的な使命とは少しずれますが、何もしない勇気、先見性など既存の価値観から抜け出して、新たな命題を提示するのもデザイナーの大きな役目のような気がしています。デザイナーの知見がそんなところで評価されるような仕事になればいいなと感じています。なんだか宗教じみてしまいますが、そんなことを考えた会議でした。会場に参加していただいた方々を考えると、もう少し現実的な話題でもよかったと思うのですが(私自身も思うところですが)、貴重な時間をいただきましたことを感謝しています。

奥村文絵 フードディレクター
フードディレクターとして日々食のデザインに立ち会っていますが、
デザインそれ自体に真摯に向き合ったのは、この会議が初めての経験でした。
昨年に引き続き、「ローカルとデザイン」というテーマに端を発した
数々の問いのなかには難解なものもありましたが、
理解できなかったという経験はむしろ、
今後に係る大切な成果であったように思います。
限られた時間ながらも、世界のカタチを預かるデザイナーとプロフェッショナルの
深淵な世界観が満ち満ちていた討議の場に参加できたことは、大きな刺激となりました。

会議の冒頭に「勝つ」と「負ける」についての議論が交わされました。
じつはそのことについて、いまもなお考えています。
「つくって売る」へと大きな転換を図るにっぽんの産地や、
「売るために育てる」をすでに始めている食品メーカーもまた、
同じ問いに直面し、新たなモノづくりに活路を見出しました。
しかし食品売り場を一望すれば、食のデザインが外的な差別化に
留まっていることは明らかです。

「デザインにとって」勝つとはなにか、負けるとはなんなのか。
外、内という勝負の矛先のこと、
そして勝負をしないという選択を含めて、
いかなるジャンルにも共通する根本的な問いを
自身の表現を屹立させているデザイナーが掘り下げていく過程に、
デザインの地域格差と未来、あるいはそれ以外について
なにか具体的な示唆が立ち現れてくるのではないか、
そんな風に思えてならないのです。

佐藤卓 グラフィックデザイナー
 この会議の目的は、テーマに基づいて各自が抱えている問題をそれぞれの立場で公開して共有し、そして持ち帰り現在を打開するための方法を生み出すきっかけにすることだと思っていました。このことについては、会議の3日前に五十嵐威暢さんから確認のメールがメンバーに回り、自分はそのように理解したのです。つまり意見を戦わせ論破する会議ではなく、お互いに相談し合う場だと思っていたのです。しかし終わってみると私の会議の印象は違いました。今年私は、会議の進め方がこれでいいのだろうかと思っているうちに3時間を過ごしてしまいました。会議中に、会議の進め方の話を持ちかけることもできたかと思いますが、そうするとそれだけで3時間が経ってしまうでしょう。その気持ちを現場でなんとかできなかったのも全て自分の力の無さだと思います。そしてだからといって、何も得るものがなかったかというと、そうではありません。会議前半で話に出た「仕事の勝ち負け」について、そして後半の「マネー」について、その後ももんもんと考え続けるきかっけになっているのです。特にマネーについては自覚が普段あまりないことに気付かされました。このように、問題を自分なりに持ち帰って考え続けていることそのものが、とても自分のためにはなっているのだからこれでいいようにも思いますが、今後会議が続くようであれば、話の中で出て来た重要なキーワードを拾い上げ、そのことについて深く話し合えるように会議の舵取りをする中庸な立場の優れた司会者が必要でしょう。これも会議という方法が前提の話なので、もっと問題を共有するためにいい方法が見つかれば、それ自体が新しい方法かもしれません。引き続き、この会議のために考えてみようと思います。

土屋文人 ITコンサルタント
デザイン会議の後半は『デザイン活動と金銭的対価の関係』について話題沸騰でしたね。大事な問題ですが、いま一つ議論がかみ合わなかったような気がします。多くのデザイナーにとって『金儲け』は不得な分野の代表格です。そして、自らの創作活動に対して金銭的対価をもらうことに何となく居心地の悪さを感じる方がたくさんいるのでしょう。つまりデザインすることの目的や志と金儲けとの対立関係に悩むということですね。しかし一方で資金的な裏付けがなければ、継続的にデザインの仕事をすることが難しいのも現実です。議論に参加しながら感じていたのですが、資金はデザイン活動を継続するための単なるツールと割り切って、成果物を作り出す人とツールを調達する人を明確に分け、それぞれを得意とする人に役割分担するのが良いのではないでしょうか?しかもそれを個人的な人間関係の中で『ついでに』行うのではなく、組織的な取り組みとして実行するのが良いと思います。その意味では本来クリエーターではないが資金調達と管理の専門家たちをデザインの世界にシステマティックに取り込んでいく仕組み(社会システム)づくりが求められていると思います。この仕組みづくりそのものも五十嵐流にいえば『デザイン』のプロセスなのでしょうね。

中村好文 建築家
中村好文です。簡単ながら「太郎吉蔵デザイン会議」の感想を述べさせていただきます。
いきなり本題に入りますが、「今回の会議においてメンバーの方々の発言の趣旨を正しく把握し、それに対する自分自身の意見をきちんと述べられたか?」と問われますと、お恥ずかしい話ですか、私としては「否」と応えざるを得ません。
事前インターネット会議の皆さんの発言を読んでいたときからうすうす危惧していたとおり、私にとって今回の会議の内容は、捉えどころがなく、難解そのものでした。
正直を申しますと、パネリストの方々の発言内容が抽象的過ぎ、かつ、高尚(?)過ぎて、よく理解できなかったのです。積極的に発言できなかった背景には、私の理解力不足と、問題意識の低さ、そして、認識不足があることをあらためて感じ、大いに反省いたしました。

しかしながら、会議の後に開かれた懇親会の席で、このことをオーディエンスで参加された7〜8人の方々に、やや自嘲気味に白状いたしますと、意外なことに、その方々も「議論の内容がよく分からなかった」「会議が空回りしてるようで、もどかしく感じた」という感想を異口同音に述べられました。
つまり、私だけが理解できなかったわけではなく、あの会場には、私と同様の方々が相当数おられたということになります(会議の後の五十嵐さんのメールに「参加者の皆さまからは大満足、あるいは満足に近いたくさんの感想をいただいています」という言葉がありましたので、会議の内容をきちんと理解できなかったのは、たまたま私の話した数名の方々だけだったかも知れません・・・)。

気になったのは、「ローカルとデザイン」というテーマで話し合うときに、議論の中に(梅原真さんの発言などのいくつか示唆に富む貴重な発言はありましたが・・・)具体的な地名がほとんど出てこないこと、具体的な問題点についてはほとんど議論されないことなどは、私にはとても奇異に感じられました。
たとえば、会議が開かれている当の「滝川」や、北海道という地域の抱えている問題について、まったく話題にのぼらないと言うことが、じつに不思議でなりませんでした。
抽象論ではなく、具体的な話ならば、問題点はもう少し明確になり、議論はもっともっと白熱しただろうと思います。また、オーディエンスの方々の気持ちを惹きつけた「熱い」会議になったのではないかと思います。
こういう会議には、抽象的な議論の得意な論客ばかりではなく、身近な問題から普遍的な問題を抽出できる実務家に参加してもらうと、もっと確かな手応えのある、実り多い会議になるのではないかと、しみじみ思ったことでした。
また、パネリストの人数が、せいぜい5〜6人ぐらいならば、もう少し議論は深まっただろうと思いました。限られた時間なので、参加者が等分に発言する時間が持てないということで、会議が未消化のまま尻切れトンボ的に終わった、という印象もぬぐえませんでした。

自分自身が今回のパネリストとして役者不足であり、同時に不適任であったことを棚に上げての感想になることを承知の上で、会議に参加させていただいて感じたことを、正直に述べさせていただきました。 

原研哉 グラフィックデザイナー
とても気持ちよく、本音でしゃべれた時間でした。僕はマネーの行方がどうなるのか、という青臭い悩みと質問を繰り返していたように思いますが、あの会議の直後に、リーマン証券の破綻に始まる金融の矛盾と問題がくっきりと露になってきました。マネーをテコにしてマネーを持ち上げる仕組みを、世界の金融先進国、特にアメリカは複雑に進化させてきました。景気の上昇と後退は、潮の満ち引きのように起こるものですが、ヘッジファンドに象徴される複雑すぎる金融商品が介在する場合には、複雑すぎてこれを直すには多大な時間が必要になります。僕らはアメリカが本当に凋落する姿をまだ見たことがありませんが、これからはそういう状況を覚悟する必要がありそうです。ものを作ることをやめ、マネーの仕組みを追究しすぎた結果のアメリカの凋落です。今回の会議は、マネーに対する疑問が、自分なりに膨らみきっていた時期でしたので、そういう意味では、その後の世界経済の激変ぶりと対照させて、印象的な内容になっていると思います。世界の株価はその後二ヶ月で、半値近くに下落しようとしているのです。
人が生きて環境をなす世界を充実させるデザインという営みは、今後の世界にとってますます重要になるでしょう。環境や経済、そして文化の衝突でますますきしみあう世界の中で「感覚の平和」を探っていくことがデザインなのですから。

西沢立衛 建築家
今回はじめて声をかけていただいて、よろこんでさっそく参加させていただくことにしました。日々仕事に追われていると、誰かと根本的な議論するということはそんなに多いわけではなく、あっても同業者の人間くらいで、他分野の人々と議論することはほとんどありません。なので、今回のような場は非常に魅力的かつ意義深く感じました。
と言っても実際には、そんなに積極的に発言できなかったので、その点は本当に申し訳なく、また、残念でもありました。でも、非常に楽しく、皆さんの発言もよく理解できて、共感する部分が多かったと思います。時間が短く感じられるディスカッションで、もっと他のテーマについても議論を広げてみたいとも思いました。異分野間の議論ではありましたが、思ったよりも共有する部分が多いというか、建設的な議論だったように感じています。
滝川を訪れたのは、今回が初めてでした。会議前に街を端から端まで歩いてみました。空き地があって、静かな通りがあって、古いダンスホールが建っていて、非常に鮮烈な印象を受けました。人口が減少し、建物が少なくなっていく風景は、都市と建築を仕事にする僕にとって、衝撃的な風景です。時代は変わっていくという当たり前のことを感じましたし、いろいろなことから解放された明るさ伸びやかさみたいなことも、感じました。街を歩きながらいろいろなことを考えさせられました。またチャンスがあればぜひ戻ってきたいと思います。

西山浩平 デザインプロデューサー エレファントデザイン代表
自分たちの社会をデザインしたい

デザインには、人を過去の呪縛から解放する役割がある。たとえば、プロダクトデザインは、大量生産品を通じて物資が欠乏する社会において多くの人を自由にしてきた。コミュニケーションデザインは情報が非対称な社会において、人々が欲しい情報を手に入れる自由をもたらした。しかしこれらは、あくまでも企業が扱うモノやサービスだったからできたことでもあった。つまり、クライアントがないとデザイナーの仕事は、成り立たない。

今日、デザイナーが経済や地方を語っても仕事にはならない。リスクをとって発注する主体者が、社会にいないからである。社会に対してデザイナーは無力だ。そこで、私たちデザインに関わるもの自身が、クライアントがなくても自主的にデザインができるようになったらと考えてみた。より効率的な経済をデザイン、より明るい社会のデザインをクライアントが今すぐにいなくてもはじめることができたら。

経済にも社会にも変化をもたらせるデザイナーになるには、私たち自身が、リスクをとって、発注主体になり、自分に発注するしか、仕事は生み出せない。事業そのもの、あるいは、政策を自ら、リスクをとってデザインする。これは私たちデザインに関わるものにとっては、大いなる越境である。なぜならそれはクライアントの仕事だからである。

しかし私たちは社会においては、市民であると同時に意思決定者でもある。もとより、受益者でもあり、発注者でもある。自分が生きる社会が対象だからこそ、自分たちが注文を出して、自分たちがデザインをする。そんなことが可能になるような気もする。私たち自身の生活をデザインするかのように、私たち自身が、私たちの社会を、デザインしたい。

何人かはこの考えに賛同し、同士になってくれるだろうか?